大乱闘スマッシュブラザーズとやら。
言わずもがな、任天堂の超人気シリーズ。
キャラの強い任天堂軍団が一同に介し、戯れる。
スーパースターの大祭り。
今回、注目したいのはスマブラシリーズでラスボスをつとめる者もの。
つまりはゲームの読点。
マスターハンド。創造神。さながら粘土をこねる手。
タブー。謎謎謎。
マスターコア。マスターハンドから溢れたこれまた謎謎謎。ダークマター。
これは…シラン。
で、と。
ラスボスらの共通項は「正体不明」。どこにも属さず、目的も見えない。
かといって、スターの競演に水を差す新キャラ(に付随する物語)をぶっこむのも野暮ったい。
だから、正体不明。
そして、彼らが居なければシングルモードは終わらない。
いわば映画でいうマクガフィン。
”展開”させるためだけに配置された装置であり、その中身は全く意味をなさない。
アヴェンジャーズ。
アイアンマン、ハルク、キャプテンアメリカなどなど。ああ、本来はエックスメンも。スパイディも。
彼らはいわば、アメコミ(マーヴェルコミック)界のスーパースター。
スマブラと良く似た構造だ。
はてさて、一昨年映画化された際、 彼らの敵は何だったか。
ロキ率いる軍団。
リーダーのロキの目的もよく分からない。軍団の没個性感も半端ない。
なんかいつの間にか地球は危機に陥り、なんだかいつの間にか救われる。
つまりマクガフィン。
なんたって、描きたいのはロキらとの物語じゃなくって、アヴェンジャーズの絡みと、アクションなのだから。
だから、これでいい。
マクガフィンとしての機能は果たされている。
ところで。
フランスの哲学家リオタールは「大きな物語の終焉」を謳った。
これがポストモダン論の幕開けであり、我々が生きる「現代」の底流として彩られる。
まあバズワードなんだけど。
「大きな物語の終焉」は、「小さな物語の乱闘」を幕開ける。
社会学的批評としてゼロ年代の特徴を「カードバトル的サヴァイヴ感」としたものがあるが(宇野常寛ら)、
まあ、噛み砕けば
「各人が好き勝手に自分の物語をつくり、
それぞれがぶつかり合うことでアイデンティティを保っている状態」を指す。
彼に言わせれば右翼も左翼も、反原発も嫌韓もぜーんぶ物語を楽しむオプション。
全てが自由で、全ての価値がフラットになってしまったこの世の中は、
「適当なオプションを付加する」といった感覚でしか渡れまい。
なんて冷めた考え方。でも社会学ってそんなもん。ずるい。けど、悔しい。
で、話は戻る。
マリオとカービィの物語が交わるとき
或は、
ウルヴァリンとトニースタークの物語が交わるとき
そして、
その物語が”足踏み的な戯れ”を許さず必ず”前への展開”をしなければならないのならば。
つまり、
本来共存し得ない小さな物語同士が集い、
しかしサヴァイヴァルを避けるためには
そう、
マクガフィンしかなかったのである。
Vフォーヴェンデッタ。
アメコミ界の異端児、アランムーアによる名作。
Vのマスクはアノニマスの象徴。カリスマではなく、人の心に芽吹いた正義の具現体。
アノニマスとは匿名性。何でもなく、何でもある。謎謎謎。
マクガフィンとなるにはうってつけだ。
「ねえ、ぼくはいったいなんなの?」
小さな物語(という名のスーパースター)が”展開”するために、
彼らはアノニマスのマスクをかぶった。
なぜなら彼らは、スターの奴隷なのだから…。
「だれか、おしえてよ!」
サカナクション。「アイデンティティ」。2010年8月。
アイデンティティがない、生まれないらららら
好きな服はなんですか?好きな本は?好きな食べ物は何?
そうそんな物差しを持ち合わせてる僕は凡人だ
映し鏡ショーウインドー、隣の人と自分を見比べる
そうそれが真っ当と思い込んで生きてた
どうして今になって今になってそう僕は考えたんだろう?
どうしてまだ見えない自分らしさってやつに朝は来るのか
風を待った女の子、濡れたシャツは今朝の雨のせいです
そう過去の出来事、あか抜けてない僕の思い出だ
取りこぼした十代の思い出とかを掘り起こして気づいた
これが純粋な自分らしさと気づいた
どうして時が経って時が経ってそう僕は気づいたんだろう?
どうして見えなかった自分らしさってやつが解りはじめた
どうしても叫びたくて叫びたくて僕は泣いているんだよ
どうしても気づきたくて僕は泣いているんだよ
大丈夫。
目の前で必死にゲームをプレイしている僕らも、
「何」にもなれずもがいているんだよ。
だって、この時代は、「何」にでもなれるのだから…。
文章:トキ
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