Chess-themed Fiction:I.F.(Isolated ♟ had a friend called ♕)
♯06 Opening
秋の夕暮れが鱗雲を真っ赤に染め上げていた日のことだった。
寒い、寒い日のことだった。
「いいわよ、してあげても。」
「え?」
「したいんでしょ?キス。してもいいわ。」
彼女はふふっ、と声に出して笑った。
「………っ。」
それは僕をからかうようで、それでも少し誘惑しているかのようで、
僕は何も答えることができなかった。
目の前には綺麗に駒が並べられたチェスボード。
今日の動物たちは臨戦態勢だった。
「もちろんただで、じゃないわ。」
彼女は僕が黙っているのをみてから人差し指をぺろり、と舐めて続けた。
「私の好きな条件で勝てたら、にしましょうか。
もちろんBlitzで、時間は…そうね。アラベスクが終わるまで。
持ち時間は2分切れ負け。
もちろん、私がシロでいかがかしら?」
そういって、彼女は祖父のコレクションからドビュッシーを取り出し、
レコードプレーヤーに優しく置いた。
「君がシロでもいいけど…さあ、どうするの?」
巡礼様 その手にあまり ひどすぎるお仕打ち、
このように 礼儀正しい 信心ぶりですのに。
聖者の手は 巡礼の手が ふれるためのもの、
指ふれるは 巡礼の優美な 口づけと申します。
頭の中で朗読会のソネットが流れていた。
黄昏の時間が彼女を赤く、紅く、どこまでも朱く照らしていた。
それは先日読んだお話に出てきたAten神のようだ、と僕は思った。
「そのままで、いいよ。」
僕は頷いてそう言った。
それを聞いた彼女は満足そうにほほ笑むと、
レコードの針をドビュッシーにそっと乗せた。
その仕草は初めての舞踏会に戸惑う美姫の手を取る、王子のようだ。
レコードはゆっくりと廻りだす。
「さあ、楽しみましょう。」
じじっ、という衣擦れのような音をたてて針がレコードに触れた。
”1ere Arabesque E-Dur”
レコード上のタイトルのその部分にも夕日が赤い影を落としていた。
暫くすると(Eと書いてあるのに)サブドミナントから曲は始まった。
「d4。」
彼女はその魔法の指先で子豚を勇ましく動かす。
その声は悲しくも楽しそうだった。
震える手を押さえて僕もポーンを手にとった。
臆病だった兵士は勇気を振り絞って進みだした。
-To be continued-
文章:U
最近のコメント