Chess-themed Fiction:I.F.(Isolated ♟ had a friend called ♕)
♯07 Q.G.A.(Queen’s Gambit Accepted)
冬の訪れが近い港町にある病院の部屋で、僕たちはチェスを指していた。
そこにあるのは駒とチェスクロックを撫でる音、
そして古い木目調のレコードプレーヤーから流れるドビュッシーだけ。
二人のほかには誰もいない白い部屋。
海辺から流れる風はよく研ぎ澄まされた刃物のように澄んでいて冷たい。
真紅の空には鱗雲がどこまでも広がっていた。
そんな翼を広げた大鵬がこの村を覆っていた頃。
その威光が白い病院の一室にまで降り注いでいた頃。
僕と彼女はモザイク模様の舞踏会に夢中だった。
僕は震える手を押さえて子豚のポーンを手にとる。
「d5。」
「c4。」
間髪入れずに彼女は2つ目のポーンを揃えて置く。
彼女は無情に時を刻む時計に優雅に触れて、
「どうぞ、召し上がれ。」
そう言って眩しくなるくらい神秘的な瞳で僕を見る。
それは驚くほど静謐で扇情的な瞳だった。
(e6? いや…)
僕は駒を掴もうとした手を止めて…
「…xc4。」
差し出されたポーンに食らいつく。
QGA。
Queen’s Gambit Accepted.
ポーンを故意に取らせる事により、他の駒の機動性をあげ、
素早く有利な展開を図る戦術。
これをそう呼ぶということを僕は後から知ることになる。
それは彼女からのオファーだった。
彼女は大きく瞬きをして、
「Nf3、よ。いいわね。今日の君は。本当に…。」
本当に、の後、彼女は何かを呟いた。
しかし、アラベスクの絡み合う流麗な調べが
それを河に浮かぶ木葉のようにさらっていく。
黄昏の時間。
透明感のある三連符の群れが赤く染まる。
彼女の柔らかな黒髪が少し揺れ、隙間から夕日が差し込んでいた。
黒と紅のそれは何か異国の人が作った織物のようにみえた。
僕たちはチェスを指し続ける。
(Nf6、e3、e6、Bxc4、c5、0-0、a6。)
僕たちはもう何も話さない。
(Qe2、b5、Bb3、Bb7、Rd1、Md7、Nc3、Qb6。)
ポーンが進み、ビショップが流れ、ナイトが跳ねる。
僕たちはもう何も話さない。
(d5、xd5、Nxd5、Nxd5、Bxd5、Bxd5、Rxd5、Rd8。)
駒が交差するたびに、消えていく兵士達。
僕たちはもう何も話さない。
(Qd1、Be7、Bd2、0-0…)
僕たちはチェスを指し続ける。
溢れるほどの分散和音が折り重なって、
そして織り重なって僕たちを包んでいく。
僕たちはもう何も話さない。
(…Kc5,a1Q。)
彼女が満足そうにほほ笑んだ気がした。
鱗雲から白い小さなものが降り出した。
それでも空は赤く、赤く広がっていた。
僕たちはもう何も話さない。
(Kd6、Qa3、Kd5、Qxh3)
僕の汗が頬を伝い、ゆっくりと床を濡らす。
冷え切った部屋の熱源は、
絡み合うアラベスクの調べに乗せて指し続けていく。
僕たちはもう何も話さない。
(Kd6、b4、Kd5、a5。)
晴天の夕暮れに浮かぶ鱗雲。
そこからの雪はすぐに世界を、
真紅と純白が世界を覆っていく。
それでも僕たちはもう何も話さない。
話す必要などない。
(Kd5、b3、Kc4、b2、Kd4、b1Q、Kxa4、Qb3、Ka5。)
大胆なリタルダンドが曲の終りを告げようとした時。
(Qa1、これで…)
「チェックメイト。」
僕の力強い言葉が響き渡った。
汗がぽたり、と落ちた。
燃えるような空から降る雪はとても奇妙で
とても美しかった。
-To be continued-
文章:U
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